メディア

国内半導体業界に迫る衝撃の再編シナリオ半導体ウォッチ(2/3 ページ)

» 2007年12月17日 00時00分 公開
[豊崎 禎久,ジェイスター株式会社]

対日戦略の中心はセマテック

 企業連合体であるセマテック(Semiconductor Manufacturing Technology:SEMATECH)は、米国半導体工業会(Semiconductor Industry Association:SIA)の子会社である(セマテックは、SIAや国防総省高等研究計画局(DARPA)など複数の機関の協力によって成り立っている)。このセマテックは、半導体製造に関する技術の研究開発のためのコンソーシアムであり、その特異性は、第1に米国政府が特定産業の救済のために資金援助を行ったこと、第2に合わせて80%もの占有率になる半導体産業の主要米国半導体メーカーが結集したことである。

 初代CEOは、米インテル社の設立者の1人であるロバート・ノイス氏であった。米国の半導体戦略は、インテル社が主導的立場を取り、半導体技術ロードマップ(ITRS)に、日本の製造装置メーカーを積極的に参加させ、日本側にR&Dに対する投資をさせたことであった。日本側の代償は、インテル社などからの製造装置の発注というビジネスモデルであった。ちなみに、ITRSとは、1988年セマテックが発表した米国半導体の製品開発スケジュールのことである。

 1987年、日本半導体メーカーの輸出攻勢に手を焼いた米国政府は高度な半導体技術の育成を目標として、1987年から毎年1億米ドルの補助金を10年間にわたってセマテックに投じ、1994年に日本半導体産業に追い付くことを目標とした。そのITRSの仕組みが功を奏し、米国半導体産業は1994年に再度世界一に返り咲いたのである。

 セマテックから生み出された企業として、世界最大の半導体製造装置メーカーである米アプライド・マテリアルズ社がある。同社は、2001年までの25年間に、売上高を年平均30%という高い成長率で伸ばし続けてきた。これは驚異的な数値である。25年間で売上高が500倍以上に増えなければ、ここまでの成長率は達成できないのである。成長の背景には、米国業界のロビー活動とそれに連動した国家戦略もあるが、日本企業との経営手法の大きな違いもある。それは、経営の戦略性に対する姿勢の違いが最も大きいといえよう。極論すると、日本式経営は戦略性に欠ける。これに対し、米国式経営では戦略性を最も重視するのである。戦略マーケティング手法こそ、唯一持続的成長を可能とするのである。

日本の凋落は、日米半導体協定が始まり

 日本半導体メーカーの処方せんを解説する前にまず、日本半導体メーカーが凋落してしまった理由を明らかにする必要があるだろう。凋落を招いた原因は、1つだけではない。しかし、日本半導体産業界に最も大きなインパクトを与えたのは、1986年に締結された「日米半導体協定」だと断言できる。

 この協定は、日本半導体メーカーの躍進に危機感を募らせた米国が、数々の政治的な圧力を日本に掛けた結果として結ばれた。SIAは1985年6月に、日本半導体メーカーの半導体製品が、不当に安い価格で米国市場に輸入されているとし、通商法301条(スーパー301条)に基づきUSTRに提訴した。提訴を受けて米通商代表部は1986年5月に「クロ」の仮裁定を下す。

 これに慌てたのが通商産業省(現在の経済産業省)である。貿易摩擦の激化を避けるべく、1986年7月に日米半導体協定に調印したのである。筆者は日米半導体協定を、幕末の1854年に締結された「日米和親条約」に匹敵する不平等通商条約だと評価している。

 当初、市場開放の目標値として掲げていたのは20%だった。この数字を達成するために通商産業省は、日本電機メーカーを監視し、海外製半導体の購入額などを毎月報告させていた。日本電機メーカーの中には、海外製半導体の購入額を増やすために、実際には使わない半導体を購入し、廃棄していた事例もあった。別の事例では、日本製半導体チップの入ったパッケージのマーキングを米国製にして、5%程度の利益を享受し、無理やり売り上げを立てていた事例も数多くあった。

 こうした日本企業側の努力の結果、海外製半導体の占有率は1992年に目標値である20%に達した(筆者は米国半導体メーカーの社員として、日本半導体メーカーに戦略マーケティングの仕事としてプレッシャーを掛ける立場側から、冷静にこの状況を見ていた)。本来であれば、その後も海外製半導体の占有率が20%程度にとどまるように監視・指導するのが筋だろう。ところが通商産業省による監視は1995年に終わり、その後は市場原理に任せるかたちとなった。

 そして2006年には、海外製半導体の占有率は43%に到達した。海外製半導体の占有率を高める過程で、日本半導体メーカーの設計技術や製造技術(日本の最先端技術ノウハウは、製造装置に組み込まれて)が海外(米国・韓国・台湾)に流出してしまっていたのである。

変化を恐れる日本企業

 もちろん凋落を招いた原因は、単に日米半導体協定だけではない。日本半導体メーカーの経営にも数々の失策があったのは確かである。日本半導体メーカーの最大の失策は、DRAM依存の事業体質からなかなか脱却できなかったこと、そしてアナログと通信技術を軽視したSoC事業を安易に選択したことである(この領域は、欧米半導体メーカーが最も制空権を持っている市場であり、強い製品分野である)。

 1990年代には、従来メカニズムのシリコン・サイクルの底を迎えるたびに「How to」から「What to」への転換が議論されてきた。しかし、シリコン・サイクルが上昇に転じるや否や、その議論は決まって頭の片隅へと追いやられてしまった。そして日本半導体メーカー各社は、DRAMを先端製造技術のドライバと位置付け、米国調査会社の市場予測を情報選別のフィルターを通さずそのまま信じ、巨額の設備投資を2000年ごろまで続けていたのである。

 一方、インテルやTIなど大手米国半導体メーカーの経営者は、DRAM市場で日本半導体メーカーに敗れたこともあり、1980年中盤以降に自社の中核事業の変更に取り組んだ。この結果、多くの半導体メーカーがDRAM事業から撤退し(半導体・システム事業などを売却)、マイクロプロセッサやDSP、アナログ・チップなどの事業に特化した専業半導体メーカーへと変ぼうを遂げた。

 米国半導体メーカーが半導体の中核事業をDRAMから次なる製品分野に切り替えられた理由は、戦略経営コンサルタント会社が策定した半導体戦略を経営陣が正しく理解し、忠実に実行したことにある。すなわち、米国半導体メーカーは、自らの将来像を描き出し、持続的成長と生き残りのため、人事・組織などドラスティックな経営改革を積極的に受け入れることができたのである。

 しかし日本半導体メーカーには、それができなかった。日本の総合電機メーカーも米国系の経営コンサルタント会社の協力を得て、事業部門の改革を実行しようとしたものの、米国流の処方箋が日本企業(日本人)の体質に合わなかったのである。このため形だけの中途半端な事業改革を実行するだけに終わってしまった。日本半導体メーカーの復活には、総合電機メーカーの傘下にある半導体事業部(カンパニー制)ではなく、自主独立型の環境を構築する必要がある。すでに欧米半導体メーカーは、専業メーカーとして独立した経営を行っている事実に目を向ける必要がある。日本的経営は、良い部分も多くあるが、世界で勝ち残るためには、経営手法をグローバル・スタンダードにしなければならない。このことは、企業OBや地域(工場)などのしがらみからの解脱である。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

RSSフィード

公式SNS

EDN 海外ネットワーク

All material on this site Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
This site contains articles under license from AspenCore LLC.